2011年3月1日火曜日

旅だった先輩 Tさんへ

突然訃報が届いた。
もう帰宅途中の電車の中で、涙がこぼれそうになった。


昨日の朝、気晴らしになるかと思って
河津桜にメジロがぶら下がった写真を携帯にメールした。
わざと「春の気配」とだけ書いて。

「心が洗われる、ありがとう」
「鶯ですか?」

そんな返事が来たので、実はメジロが正しいんですよと
速攻で返信したんだ。

「うはー、メジロだったのですか、参った」

そんな返事がすぐに返ってきた。
だから僕は伝えたんだ。
体調が戻ったら、小さな発見を一緒にしに行きませんか?って。
もっとちゃんと撮れた写真も見せたかった。

一番後悔しているのは、病室が変わったって昨日の午後だったか
メールが来たのに返信しなかったんだ。
悔やまれて悔やまれて。
お見舞いまた行きますねって、なんで伝えなかったんだ?
日曜日撮った写真を焼いて、写真立てに入れて持って行こうと
思っていたんだ。
なんで伝えなかったんだろう。

訃報を聞いて、すぐにそれを思い出して悔しくて。
だから、もう読んでもらえないのをわかってるのに、
感謝の気持ちを込めて返信したんだ。
伝わらないかもしれないけれど。

何年かして、この内容を読み返したときに
いいオッサンが何書いてんだよって自分が思うかも知れない。
でもあまりに急で、なんだかわからないんだから仕方ない。

先輩のT さんは今から20年ちょっと前、直接の
上司ではなかったが、ウインドウシステムと
GUI つながりで、僕はウインドウシステムを担当、
TさんはGUI側を取り纏められていた。
席も近かったし、喫煙所でいろいろな事を教えて頂いた。
今の嫌煙時代では、こういうのは煙たがれるだろうけれど。

当時は日本語文献も少なく、更にはインターネットどころか
所謂構内LAN だって普及していなかった時代。
そんな時代で、ある意味では最先端だったのかも知れない。
英語のドキュメントを読んで実装を確認して、
仕事をバリバリされていたTさんは雲の上の存在だった。

何一つ恩返しをすることなく、お世話になったことやら
一度としてお礼を伝えることもなく。
なにやってんだろうな、本当に。



僕の凱風快晴を見てもらうことは叶わない。
でも約束です、いつか必ず撮りますから。
僕なりの赤富士を一生をかけて考えて。
そんな事に拘っておられないかもしれないけれど。

同じ時代に同じ時間の中で、その一部を
近くで生きられた事を感謝しております。
チカラ任せに生きて仕事をしていた僕を、遠目で見ながら
ヒソっと呟いてなだめてくださった事もありました。
英文ドキュメントの和訳後をチラっと見せてくださった事も。
思い出したらきりがない。

いつか僕も終わるとき、赤富士をもっていきますね。
だから、それまで僕は頑張って生きていきます。

またいつか!

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