2010年3月28日日曜日

情報の取捨選択と「関係」

去年の夏くらいだったか、興味本位で少し触ったTwitter
古い友人がきっかけで、また数カ月触ってみた。




情報とコミュニケーションについて、また考えている。
情報の質や意味は価値観の違いで評価が異なると思う。
不特定多数から受け取る場合、特定で送信元がわかっている場合、
多くの背景や要素が情報に混ざるのだと思う。
難しく考えるとアタマが痛くなる。
それを殆ど考えずに済むはずだと思える手段の一つが
Twitter だと僕は思っている。

受け手の立場で考えると、わずか140文字に大きな意味があるのは、
  • ニュース配信のような公共性を含む情報
  • リアルタイムに近いタイミングで発信される情報
  • 受け手の価値観に合った情報
この三つが思いつく。
調べれば誰かがきっと同じような事をきちんと解説していると思う。
僕がフォローした殆どは自分の趣味について、特に商品の
入荷やセールをリアルタイムに流す発信元。
天気予報やニュースの発信元。
それ以外は友人・知人、それと僕をどこで見つけてくれたのか
フォローしていただいた方。

興味深かいのは高円寺ルック商店街のTwitter での
情報発信の活発さ。
情報発信をここまで継続して、フォローも多い活発さに驚いた。
これは人的パワーが続くのであれば、とても効果のある
取り組みだと思った。
でも、あまりに情報が多くて掴みどころが無い感覚もあった。
時間が無限にあれば、取捨選択が出来るのかも知れないが。

Twitter のいいところは沢山あるとおもう。
しばらく接点のなかった古い友人とコミュニケーションを取れたり、
知り合いが何をしているのかわかったり。
しかし、これは不思議な感覚をいつも感じている。
既知の知り合いであれば、むしろTwitter である必要性は
全く無いといっても過言ではない。
もしもTwitter が手段であることが必須であるならば、
何か違う意味で関係が成立していないんだと思う。
なぜなら、友人、知人との公開チャットは少し気持ち悪いと思う。
接点が持てないとすれば、それは僕に問題があるのだと思うけれど。
常に相手の行動を知りたいと思うわけではないし、それを整理するのも
垂れ流し的な情報ソースだと面倒になる。
個人ベースだと発信元の気分次第という側面も面倒くさい。
内容然り、タイミング然り。これってコミュニケーションなのだろうか。

自分がネタを発信するだけなら簡単なのだけど、その場合は
コミュニケーションとは呼べなくなる。
敷居が低いと思えたTwitter でさえも、発信者目線の情報が
溢れて取捨選択が面倒になった。
特に知り合いのフォローをやめるというのは気がひける。
元気な事を知る手段は別にあるし、メールでもチャットでも
必要があればコミュニケーションは可能。
それでも気がひけるのが気持ち悪い。

情報の取捨選択、関係というのは難しいといつも思う。
知らない人のフォローをやめるのは割と簡単にしてしまうが、
知り合いのフォローをやめるのに、「フォローやめます!」と
メッセージを送るわけにもいかない。

Twitter はひとまずお休みしようと思う。
新しい価値を思いつくまで。
個人ベースじゃなければネタも含めて活用方法が多い。
単純にトラッキング的な使い方をすれば、応用範囲は無限だし。

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